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Kai 8 契約書KAI風調理法

2013年4月2日

法務力に不安があっても、法務文書の翻訳を迫られることがあると思います。上司の命令かもしれません。普段法務文書は扱わないプロの翻訳者が、得意先に「どうしても」と頼み込まれることもあるでしょう。今は一昔前と違って、英米法関連の辞書や英文契約書の解説書がかなり充実してますので、その助けを借りることが可能です。

このコーナーでは、法務が専門外の方々や、英文契約に馴染みのない法務担当者の方々を対象に、法務翻訳にあたって役に立つかもしれない私なりの視点を提供したいと思います。

但し、

  1. 法務翻訳といってもあまりに幅が広いので、契約書に関する話しに限りました。それも、米国企業との契約実務と米国法の話しに絞ります。
  2. 上で述べたとおり、英文契約書の優れた解説本が既に何冊もあります。重複しても意味がないので、そこであまり取り上げられていない視点に絞ります。同じ理由で、網羅的な話しにはなってません。
  3. 法律が専門外の方々を念頭に置いて、前半では法律の基本的なことを書きました。法務関係者の方々にとっては、特に目新しいことはないと思います。
私も Law School で英米法一般の勉強はしましたし、英国系企業が絡む法務文書の翻訳も普通に行ってますが、人に語れる程の英国法(この呼び方自体、私としては疑問があります)の知識・経験はありませんので悪しからず。

ではこちらにどうぞ。

実は私は日本の大学では法律は全く勉強してません。一般教養の法学の講義に出たことがあるだけです。にもかかわらず、就職先で法務部に配属されました。最初の数年は、ほとんど法律や契約の深い知識なく仕事をしてました。今から思うと冷や汗ものです。その時の自分自身の姿を思い浮かべながら書きました。

1.契約自由の原則

私が最初勤めていた会社の法務部は基本的に契約モノが仕事の対象でした。大部分は英文契約でした。当時の私の主な仕事は、契約書を検討して、そのリスクを合理的に分析した上でコメントを作成して相手方に返し、必要に応じて交渉の場に出かけることです。対象契約は、石油メジャーや、石油産出国の役所との請負契約とか、各種化学プロセスを所有する企業とのライセンス契約がほとんどでした。勿論相手によって契約書の中身は異なりますが、問題点は概ね共通してます。山の様にそんな契約書を読んでいくと、そのうち勘所は身についてきます。誤解を恐れずに大胆に申し上げると、契約書の作成や、レビュー、交渉は、法律をあまり知らなくてもできます。

日本やアメリカをはじめ、ほとんどの先進国では契約自由の原則があります。従って、取引を司る商法や民法等の法の一般原則があっても、自由に契約条件を定めることができます(細かい例外がありますが省きます)。言い換えると、当事者の二人が、二人だけの間で通用する「法律」を自由に決めることができるということです。買手が「プラントの保証期間は2年にしろ」と言い、売手は、「とんでもない、1年以上は無理」と言うのも自由なら、売手が「納期は努力義務に留めたい」と言い、買手が「駄目だ。1日遅れたら1,000万円払え」と言うのも自由です。

特に英文契約の場合は(後で述べる「完全合意」のこともあり)、必要な条件を詳細に定めるのが普通ですので、法律の一般原則のうち多くは契約書の中の詳細な規定により上書きされます。その英語も、日本の契約では考えられない程細かく、かつ長い条文になりますが、辛抱強く紐解けば、手も足も出ないということはありません。ということで私も大した法律の知識もなく、なんとか法務部員をお払い箱にならずに済んだ訳です。

いずれにしても思わず英文契約を訳す羽目になった場合は、法律の知識不足を理由にびくびくせず、目の前の英語を、あるがままに、丁寧に、漏れなく訳すことに専念すれば道が開ける可能性はあります。

注:

訴訟書類や弁護士の意見書等、他の法務文書を翻訳するときは、ちょっと事情が異なりますので、十分な法務知識が望ましいでしょう。

少なくとも契約書に書いてないことにあまりおびえる必要はありません。もっとも十分な英語力があることが前提ですが。

2.民事と刑事

と、少し乱暴なことを書きました。しかし、やはり基本的な法律の仕組みを理解するに超したことはありません。

中途半端な法務部員として3年程たったある日、突然部長から呼ばれ、「明日シンガポールに飛べ」という命令が下りました。なんでも、会社が現地の下請業者から詐欺罪で訴えられそうな騒動が勃発したので、その和解交渉団に加われということです。その時部長が、「いいか。これは民事じゃなく刑事だ。下手をすればお縄だからな。気をつけろ。」と、自分の両手を合わせてお縄にかかるような仕草をしました。私はとりあえず、「分かりました」とだけ返事をして自分の机に戻りました。しかし戻りながら「刑事?」、「お縄?」。何のこと?と釈然としませんでした。

その日、仕事の合間にこっそりと調べると驚愕の事実が明らかになったのです。

何と、法律には民事と刑事という二つの分野があり、これは全くの別物だということが最初の驚き。そして、そんな基本的なことを自分が何も知らず、3年近く法務の仕事をしてきたことがより大きな二つめの驚きでした。

それがそんなに驚くことなの、と思われたあなた。ご心配なく。この後を読めばおぼろげながら刑事と民事の違いが分かります。今後お仕事に、そして人生にきっと役に立ちます。

この事実を知って、腰を抜かされた法務関係者の方々(特に当社のクライアントの方々)。ご心配なく。私はその後社命留学でアメリカの Law School に行き、3年間みっちりと法律を勉強しました。今ではちゃんと(日本法も含めて)理解しております。

法律が民事と刑事に分かれると言いましたが、人も、男と女、子供と大人といろいろ分け方があるように、あくまでも数ある法律の二分法の一つに過ぎません。他には、例えば公法vs私法、実体法vs手続法、等の分け方があります。しかし、法務翻訳を行う場合は、民事と刑事の違いだけでも把握しておくと心強いです。

例を挙げましょう。できれば日本の例がいいのですが、あまり有名な事件を思いつきませんので、アメリカの O.J. Simpson 事件を取り上げます。

この事件では、かってのフットボールのスーパースター O.J. Simpson は殺人の罪を問われ、裁判の結果無罪になりました。これが刑事です。

その後、O.J. Simpson の元妻と同時に殺害された男性の両親がO.J. Simpson に対して損害賠償を求める民事訴訟を起こし、裁判の結果両親側が勝訴しました。これが民事です。

このニュースを聞いた多くの人は、O.J. Simpson は無罪になったのに、何で「負けたの」と不思議に思われたことでしょう。これこそ、民事と刑事が全くの別物であることのいい例です。

刑事事件というのは、犯罪が行われた時に、国家権力が犯人を罰するものです。あらゆる刑事事件で、一方の当事者は国、州などの公権力、もう一方は(日本では被告人と呼ばれる)私人です。そこで下される判決は「有罪」か「無罪」であり、有罪の場合は、罰金が課されたり、懲役刑や禁固刑が課されたりします。

これに対して、民事事件は、民間人同士で争いが生じた時に、両者間の権利・義務を決着するために行われるものです。当事者は両方とも人または企業等の私人です。そこで下される判決は、損害賠償金の支払い命令や、差止命令等であり、刑罰を言い渡す判決が民事事件で下されることはありません。

そして、一つの事件について、刑事と民事の訴訟が別々に起こされることは日本でもアメリカでもそんなに珍しいことではありません。

繰り返します。刑事の世界では、損害賠償とか差止請求という言葉は出てきません。逆に民事の世界では、有罪、無罪という言葉は出てきません。目的もシステムも異なります。

そこで本題に戻りますが、契約というのは、あくまでも民事の世界のことです。私人同士が契約自由の原則に基づいて、国家権力の干渉を受けず、交渉し合意するものです。

注:勿論、公序良俗違反、任意規定と強行規定の違い、消費者保護法等、いろいろ例外はありますが、問題が複雑になりますのでこのコーナーでは説明をはぶきます。

ところで刑事と民事の違いで大事なことを忘れてました。

O.J. Simpson は刑事では無罪になったのに、何故民事では負けたのでしょうか?一つは刑事訴訟では無敵の弁護士団を雇えたのに、民事訴訟の時はもう金がなく優秀な弁護士を雇えなかったことがあるようです。より大きな制度的上の違いは、事実認定の判断基準の差です。刑事の場合は、 beyond a reasonable doubt (合理的な疑いの余地がない)と呼ばれる判断基準が採用され、少しでも無罪かもしれない、という疑いがある場合は有罪とすることができません。これに反して、民事の場合は、原告と被告の言い分を天秤にかけて、どちらかと言えばこちらの言い分の方が正しいだろう、とされた方が勝ちます。これを刑事の beyond a reasonable doubt に対して preponderance of evidence (証拠の優越)といいます。これはとても重要な刑事と民事の違いです。つまりO.J. Simpson の場合は、刑事では有罪とするのに必要な証拠に欠けたが、民事で賠償責任あり、とするには十分な証拠があった、ということでしょう。

刑事と民事の違いについて分かっていただけたでしょうか。次は民事の世界に絞って、もう少し詳しく見てみましょう。

3.契約と不法行為

民事の世界の主人公は実は契約だけではありません。他には、この土地の所有者は誰?という物権の世界や、この子誰の子?この家は誰が相続するの?という家族や相続関係の世界もあります。

が、ここでは、「契約」と密接に関わる「不法行為」をもう一つの主人公として取り上げます。

契約書の翻訳を行う時、この二つの違いを明確に理解しておくと、とても安心です。

ある人Aが他人Bに対して(つまり私人間で)損害賠償の支払や物の引渡等、何らかの法律行為を強制できる場合、その根拠は基本的に契約と不法行為のうちのどちらかです。

契約の場合、AとBは互いに相手のことを知ってます。AとBは契約の当事者同士のはずですから、これは当然ですね。自動販売機でお茶を買う時も、お茶メーカーとお客は瞬間的に知り合いになってます。

注:自動販売機でお茶を買うことは立派な契約行為です。ご存知でした?

AはBに製品Pを納入することを約束し、BはAに代金を支払うことを約束します。この時結ばれるのが契約であり、どちらかが契約に違反すれば、被害側の当事者は、契約に基づき違反行為の是正や損害賠償を請求できます。

一方、不法行為の場合、AとBが知り合いである必要はありません。むしろそれまで見たこともない赤の他人であるケースがほとんどです。契約の場合と異なり、AとBが事前に何かを合意する必要はありません。例えば暗い夜の山道で、Aが車を運転しているときに、対向車の運転手Bが酔っぱらっていて車をぶつけられたとします。AとBはそれまで会ったこともありません。当然、『BがAの車にぶつけたら、BはAに損害賠償金を払う』という契約が事前にAとBの間で交わされたはずもありません。しかし、Bに損害賠償金支払い義務があることは明白ですね。その根拠は何でしょう?それが不法行為という法理論なのです。

具体的に言うと、日本の場合は民法第709条が不法行為に基づく損害賠償義務の根拠法令です。「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と書かれてます。法律が専門外でも、是非この条文だけは暗記して下さい。ある意味、近代社会の秩序維持の最大の源泉ですから。とても短い文章ですが、必要な要素が全部詰まってます。

ここで、「故意」というのは分かりやすいと思いますが、「過失」とは何でしょうか?

人は誰でも法律上、最低限の注意義務を負ってます。例えば車を運転するときは酒を飲まないというように。この義務に違反すると「過失」があるとされ、上記第709条が発動されます。逆に言えば、この注意義務さえ守っていれば不法行為に基づく損害賠償責任を負うことはありません(例によって細かい例外を省きました)。

ということで、ざっくりと少し乱暴にまとめると、契約の場合、そして第709条を根拠とした不法行為の場合を除けば、他人に対する履行義務や損害賠償支払義務は発生しません。この点で契約と不法行為は似通ってますので、法務が専門外の方は混同されるかもしれません。

ところで契約と不法行為を混同して何か問題があるの?と思われるかもしれません。いい質問です。

実はこの二つには重要な違いがあります。勿論いろいろとありますが、契約翻訳のときの補助知識としてお薦めなのが次の相違点です。

契約の場合、何か問題があれば、契約の目的が実現されていないことを指摘するだけで十分です。買ったテレビが映らない。交換してくれ、と店に言えば、四の五の言わず、すぐ取り替えてくれるでしょう。テレビが映らない、ということは正に売買契約違反ですから、メーカーや店の過失を消費者側が証明する必要はありません。

これに対して、不法行為の場合は、損害賠償を求める側が、いろいろなことを立証しなければなりません。例えば、家が火事になって燃えてしまった。どうもあのテレビが火元では、と思ってメーカーに訴えても、直ちに新築工事の手配などはしてくれません。この訴えが通用するには、まずメーカー側に設計、製造その他の面で「過失」があったこと、次に現実にそのテレビから火が出たこと、そしてそれが実際に家の全焼をもたらしたこと。これらを原告となる消費者側が証明しなければなりません。これは簡単なことではないですね。

注:話しを分かりやすくするために、法務関係者なら怯むような省略を敢えてしました。若干補足します。 ・不法行為で賠償請求する場合は、「過失」が必要といいましたが、とても重要な例外があります。皆さんもよく聞く「製造物責任」の場合は、消費者側が過失を証明する必要はありません。しかし欠陥があることは証明する必要があります。 ・テレビの件は、1995年に製造物責任法が施行されるまでは、過失の立証でつまづく問題としてよく取り上げられた一例です。しかし製造物責任法施行後は消費者は欠陥を証明すればOKとなりましたので、今ではメーカー側の設計・製造の過失の立証は不要です。ただこの例でも、テレビから火が出たことと、それが全焼の原因だったことを証明する必要はあります。

上の例で、同じテレビのことなのに、一方では契約の話し、他方では不法行為の話しでした。確か、不法行為は見知らぬ者同士の話しではないの?と思われました?いいところを突いてます。それが私の狙いでもあるのですが。

英文契約の翻訳に話しを戻します。契約の中では当事者が互いの権利・義務を定めます。基本的にはどちらかが契約に違反すれば、契約法(準拠法次第なので日本法のものとは限りません)に基づき故障の修理、不良品の交換、代金返金、納品の遅れで失った売上分の補填、等の是正が行われます。しかし、製品の欠陥は当然契約上の不履行で処理できますが、製品の欠陥で他の機器類に損害が発生したり、人が怪我をするかもしれません。その人も顧客の従業員かもしれませんが、契約には何の関係もない近隣住民の方かもしれません。

よく考えてみると、契約の当事者同士は密接な関係に置かれますので、不法行為の問題が発生する確率も大きいわけです。例えばプラント契約の現場では様々な車両が出入りしますので、契約当事者である顧客と請負業者の車両同士が交通事故を起こす可能性は、夜の山道で飲酒運転の車にぶつけられるよりは大きいかもしれません。

このようなこともあり、特に英文契約では、取引全体のリスク管理の観点からも、契約の問題だけでなく、不法行為上の問題についても触れることが普通です。このような条項は複雑で、かつその性質上、他の条項に較べてより慎重に訳す必要があります。自分の判断の手掛かりも多いほど楽です。ですから、契約と不法行為の違いを知っていれば、不要な誤訳を避けることもできますし、第一、訳している本人も安心だと思います。

さて、ここまでの話しは概ね日本でもアメリカでも同じ事情です。では対応する英語をご紹介します。

契約自由:
freedom of contract
刑事:
criminal
民事:
civil
契約:
contract
不法行為:
tort (字面を追って機械的に illegal act とか unlawful act と訳すとアメリカ人には誤解されるでしょう。)
故意:
intentional act; willful misconduct (「故意」を辞書で引くと、intention、willful intent という訳語がよく当てられています。しかし、英文契約書の中で「故意または過失により」という場合は、むしろ「故意の行為」という意味ですので、 willful misconduct や intentional act という言葉の方が普通です。)
過失:
negligence
第709条:
アメリカでは不法行為は判例法の蓄積でその法理が確定しているため、日本の民法第709条のようにその原則を一律に定める具体的な条文はありません。

4.前文と完全合意のこと

前振りが結構長くなってしまいました。ここからは具体的に英文契約の中身について触れていきます。

英文契約に目を通し始めてすぐ気がつかれるのは、冒頭の当事者の記述に続いて、Whereas Clause または Recital という標題で始まる前文があることです。契約が結ばれた経緯や背景が描かれることが多いです。私が昔、毎日のように読んでいたプラント建設の契約では、この Whereas Clause が数ページに及ぶことも珍しくありませんでした。

一方、もし通常の日本語契約をご覧になる機会があれば、このような前文がほとんどないことに気づかれるでしょう。この違いは何でしょうか?

英文契約の最後の方を見ると、 “Entire Agreement” とか、 “Integration” という見出しを伴う条項が必ずあります。Whereas Clause と Entire Agreement 条項はサンドイッチのパンのように契約書の中身を挟み込んでますが、実はとても重要な意味を持っています。

米国各州の法律には、 parol evidence rule という原則があります。俗に four corners rule と呼ばれます。この原則により、書面契約の場合、その契約の中に書いてあることに矛盾する契約外の口頭または書面の証拠は無視されます。結構過激な原則ですね。Entire Agreement 条項はこの原則を反映し、かつ強化する条項で、「本契約の対象事項に関する両当事者間の全ての合意は、この契約のみが構成し、過去(および場合によっては契約締結時)の口頭または書面の合意は全て無効となる」旨を定めます。英文契約にはほぼ必ず入ります。

これが何を意味するかというと、例えば日本企業が米国企業との契約交渉の過程で有利な条件を勝ち取り、それを書面化していても、最終的な契約締結時に、その契約の中に入れなければ完全に無視されるということです。契約担当者が交渉の過程で議事録等をこまめに残し、その都度相手のサインをもらっていても、無駄になります。従って、交渉過程の合意内容を最終契約書(英語ではよく definitive agreement と呼びます)に入れることが極めて重要になるのです。

さて、肝心の契約条項に加えて、契約の経緯や背景も契約の中に入っていれば、問題が生じた時に役立つことがあり得ます。契約条項だけでは明確な解釈が難しいことはままありますので。しかし、これも契約の中のどこかに書いてないと考慮されません。この解釈の余地を残す目的で経緯や背景情報を契約書の中に盛り込む慣行ができ、その場所となったのが前文です。

ちなみに、過去の合意や了解事項も、物理的に契約書の中に入っていなくても、契約の中でちゃんと引用した上で「これも本契約の一部を構成する」と書いてあれば大丈夫です。全合意条項によっても排除されません。このような引用を行う場所としてもWhereas Clause はとても便利です。

実際、プラント契約の場合、客先がすべての応札業者に送った引合書類や、応札業者が客先に提出したプロポーザル、客先が業者に提示した仕様書等を、前文の中で順を追って並べて、その都度、それが契約の一部を構成する、と述べることがあります。このような方法を取れば過去の書類でも契約の一部に組み込むことができます。

では、何故日本の契約書には Whereas Clause のような前文があまり見られないのでしょう。日本には parol evidence rule のような原則がないこと、そして訴訟になっても、裁判官は契約書そのものに限らず、あらゆる証拠を検討できる自由裁量を持っており

、「契約書に書かないと無視されるから何でも詰め込んでおけ」という慣行がこれまでなかったのがその理由だと思います。むしろ、日本語契約では英語契約で Entire Agreement が置かれるくらい最後に近いところに、まず間違いなく「協議」条項が置かれてます。これは「何かあったら誠意を持って協議し、解決しましょう」という条項ですから、まさに Entire Agreement とは正反対の文化ですね。

注:「裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。」(民事訴訟法247条)

ということで、この項のポイントをまとめると。

・ 企業法務の方へ:英文契約の交渉過程の合意事項は、最終契約に入れないと意味を持ちません。漏れなく入っているかしっかりと確認することが必須です。(本文や、その添付書類の中に入れなくても、前文かどこかで引用して “which is incorporated herein by this reference” という文言を入れるだけでもOKです。)

・ 翻訳者の方へ:日本の契約は協議条項を置き、疑問があれば話し合う余地があります。しかし英文契約は、これとは極めて対照的に、「これが全て」という唯一無二の文書です。誤訳が原因であなたのクライアントが勘違いしていても、契約交渉時の議事録や覚書を盾にクライアントが相手方当事者に「訂正」を求めることはできません。心してかかりましょう。

5.Compliance with law と Governing law と Jurisdiction の違い

私の長年の実感ですが、governing law (準拠法)と jurisdiction (裁判管轄権)を混同する人が多いように思います。また最近は、compliance with law (法令遵守)と上の二つの条項を混同する話しも聞きます。これらは、いずれも英文契約によく含まれる条項ですが、国際法務を専門とする方はともかく、法務が全くの専門外の人や、法務担当者の方でも英文契約に慣れてない方ですと、標題だけでその中身を区別することは難しいかもしれません。

この三つはその外観と、醸し出す雰囲気はちょっと似てますが、空間座標のx軸、y軸、z軸の様に、その方向性と目的は異なります。基本的には互いに別個の条項です。

まず簡単なものから行きましょう。

Compliance with law (通常は「法令遵守」と訳します)は、契約当事者に法令の遵守を義務付ける条項です。対象となる法令は、通常は applicable laws and regulations 等と幅広く表現されますが、輸出管理関連法令だけは具体的に明記されることがあります。対象は、当事者が一般国民として、そして事業者として守らなければならない様々な法令です。この条項は、戦略的物資・技術の違法な輸出がきっかけとなって一気に普及した経緯もあり、一番の対象は輸出管理関連の法令です。しかし今では契約の履行に絡む法律かどうかをあまり問わず、何でも対象にするのが普通です。

「法律はもともと誰でも守る義務があるでしょ。何故、ことさら契約書で謳うの?」

鋭い指摘です。あなたにはリーガルマインドがあります。なるほど一見無駄な条項のように見えます。しかし、ちゃんと意味があります。重要と思われる点を二つあげます。

確かに誰にでも法令遵守義務はあります。しかし実際に契約の相手が法令違反をした時、あなたならどうします?そんな不埒な会社とはつきあいたくない、とすぐに契約を解除しますか?何を根拠に?契約に基づく相手の履行義務と、法律の遵守義務は、基本的には別物です。法律違反したとしても、もし相手があなたとの契約はちゃんと履行していれば、契約を解除できる権利はそもそもあなたには発生しません。

とはいえ、相手の社員が交通違反をしたくらいで契約を解除する気は起こらないとしても、相手が核兵器に使える製品を怪しげな国に輸出して社長が逮捕されれば、取引停止も考えますよね。

そこで、法令遵守を契約条項として入れ、「違反した場合は、いつでも契約を解除できる」という文言を入れれば、晴れて解除権が手に入ります。これが Compliance with law 条項を契約に入れる最初の理由です。

次に、相手に法令遵守の義務がそもそもないことがあります。その時は、契約の義務として入れ、間接的にその履行を強制する必要があります。「えっ?そんなことがあり得るの?」と思われました?十分にあり得ます。

例えば相手がドイツの会社とします。勿論ドイツにも輸出管理の法令があります。相手もその法律は当然に遵守するでしょう。しかし、あなたとしては、ドイツではなく日本の輸出管理関連法を遵守して欲しいのです。相手には日本法を遵守すべき当然の義務はありませんから、契約書の義務として入れる必要があります。この場合、例えば “The Customer shall comply with all applicable laws, rules and regulations.” とするだけでは不十分です。念を入れて、 “The Customer shall comply with all applicable laws, rules and regulations of Japan and other countries, including, but not limited to, Japan’s Foreign Exchange and Foreign Trade Act, Export Trade Control Order and other related laws, rules and regulations.” 等とする必要があります。(ちょっとしつこ過ぎますか?)

次にgoverning law と jurisdiction の違いについて見てみましょう。

governing law とはその契約の成立や解釈をどの法律に従って行うかという問題です。一方、jurisdiction はその契約の争いを、どの裁判所に提起するかという裁判管轄権の問題です。この二つは似てますが、全く違うものです。governing law がニューヨーク州法なら、jurisdiction はニューヨークの裁判所、とセットで揃えるパターンがほとんどです。しかしgoverning law はニューヨーク州法だが、裁判は東京地方裁判所に提起する、という契約も理論的にはあり得ます。

Jurisdiction条項は、ほとんどの英文契約に設けられますが、国際契約の場合(つまり当事者の国籍が異なる場合)は若干事情が異なります。当事者の国が異なると、一方の国の裁判管轄に服することへの合意はなかなか得られません。また、契約対象の事業や技術の秘密性が高い場合、原則公開主義の裁判を両当事者が嫌うこともあります。このような場合は仲裁手続 (arbitration) を採用します。仲裁も拘束力のあるものとないものがありますが、通常は拘束力のある仲裁 (binding arbitration)が選ばれます。この場合、裁判に委ねる可能性は完全に排除されますので、その契約書の中には、Jurisdiction条項は存在しないことになります。しかし、この場合でも、準拠法条項は置かれます。

6.Warranty (保証)と Indemnity (補償)の違い

Warranty(「保証」)とindemnity(「補償」)は、英文契約にはつきものです。この二つは日本語の読みが同じで、かつ誤変換されることもあるので、紛らわしいです。

「保証」(warranty)というのは、特に英文契約の場合は、製品やサービスに欠陥があった場合に、当該製品やサービス自体の修理、交換または代金の返金をその納入業者が行うことです。自分が収めた製品やサービスが対象ですから、納入業者もそれなりにリスクが見積もれます。

これに対して「補償」(indemnity)は、「契約対象の製品・サービス本体の修理・交換・返金」以外の、より広い未知のリスクについて、一方の当事者が相手方当事者を防御し、損害について補償することを意味します。例えば、工事請負契約を例に取ると、工事業者が建設したプラント本体の故障は warranty の問題で工事業者が当然に面倒を見ます。しかし、例えばプラントの故障が原因で他の装置や施設に及んだ損害(いわゆる拡大損害)や、現場にいた工事業者の従業員がうっかりと吸ったタバコの火が原因で火事が発生した場合の損害等は、 warrantyの問題ではありません。更に細かく見ると、工事請負契約の当事者である顧客が被った損害もあれば、全く関係のない近隣住民やたまたま現場に出入りしていた他の業者のような第三者が被る損害もあります。このような損害を誰が負うのか、負わないのかという問題に対処するのが indemnity です。

Indemnity や、その動詞形のindemnify(indemnification という名詞形もあります)は意味がちょっとひねっていて、日本語でぴったり当てはまる単独の訳語がありません。一般の辞書には「償う」、「弁償する」、「補償する」という訳語が当てられますが、もう少し言葉を補う必要があると思います。

例えば A と B が契約当事者とします。次に第三者を C とします。 “A shall indemnify B from and against any and all claims, costs, damages, losses, liabilities and expenses (including attorneys’ fees and costs) arising out of or in connection with XXX.” というのが典型的な使い方ですが、これは以下のことを意味します。

(a) XXX から発生した損害等について、まずA が B に請求したり弁償を求めることはない(免責の要素)

(b) XXX から発生した損害等について第三者C がBに対して請求を行った場合は、A が前面に出て B を守る(防御の要素)

(c) XXX から発生した損害等について B が第三者C に何か支払った場合は、A がそれを弁償する(補償の要素)

Indemnify の一語がこれらの要素を全て含みます。ちょっと分かりづらいでしょうか。例えば盾を連想してみてはどうでしょう。盾は外の攻撃から盾を持つ兵士を守ります。かつ盾自体が盾を持つ兵士に襲いかかることもありません(当然ですが)。身近な例では、保険はまさに indemnify の機能を果たしてます。

ところで先ほどの工事契約の場合ですが、プラントの故障が原因の拡大損害や、工事業者の従業員のタバコの不始末による火事の損害は、誰が indemnify の責任を負うと思われますか?当然工事業者ですよね。理屈としては当然そうすべきでしょう。そもそも工事業者に責があるのですから。

となると、工事業者は、顧客の損害を補償し、更には第三者からの損害賠償請求を填補しなければなりません。しかしこのようなリスクを無限に負うことは工事業者としてもできないので、自分が負う賠償責任を金額で限定したり、特定の損害は責任から外してもらうよう、顧客との契約で交渉することになります。契約自由の原則ですから、この辺りは当事者の力関係やプロジェクトの事情に応じて変わり、これといった決まりはありません。

かなり昔に一度だけ、工事業者の責による損害も、全て顧客が面倒を見て、顧客が工事業者を indemnify するという契約を見たことがあります。理解に苦しみましたが、その理由を聞いてなるほどと思いました。工事に事故はつきものです。業者に責任を押しつけるものいいですが、結局業者としてはそのリスクを価格に転嫁します。予備費(contingency といいます)として見積価格に上乗せするか、保険を付保して保険料を見積価格に乗せます。結局、プロジェクト全体のコストが必要以上に膨らむ可能性があります。この案件のときは、顧客が自ら全てのリスクをカバーする保険を一括して購入する計画だったようです(または自社のキャプティブを利用したのかもしれません)。業者に対しては、リスクは顧客が取るから、予備費や保険料は一切価格に乗せるな、という指示をしたのでしょう。こうするほうが全体のコストを抑えることができるという判断があったのだと思います。確かにこれも一つのリスク管理ですね。

7.Limitation of Liability

英文契約の大きな特徴が免責条項です。

日本企業同士で交わす日本語の契約書には免責規定はあまり見られません。建設請負契約の工事業者も、製品売買契約の納入業者も、ソフトウェア開発契約の開発業者も、コンサルタント契約のコンサルタントも、それぞれが納入する物やサービスについて一定の保証を行い、その他にも契約に基づく様々な責任を負います。しかし、その責任を免責したり、限定する条項はあまり設けないのが普通です。何か問題があれば協議して解決するというのが伝統的な方法で、今でもこの商慣行が残ってます。

一方、英文契約では、そもそも何でも前もってはっきりしておきたいというアメリカ人の性格もあるのでしょうか、責任の取扱いも詳細に定められるのが普通です。製品・サービスの納入業者側が何らかの形でその責任を限定したり、または完全に免責とすることが珍しくありません。

これにはいろんなパターンがあり、網羅的に説明するのは難しいのですが、典型的な例を挙げます:

(a) 納入業者が、製品・サービスそのものに対する保証すら全く行わない。

(b) 納入業者が、製品・サービスそのものに対する保証は行うが、製品・サービスのやり直しにその責任を限定する。

(c) 納入業者が、製品・サービスそのものに対する保証は行うが、それ以外の拡大損害や第三者損害に対しては責任を負わない。

(d) 納入業者が、製品・サービスそのものに対する保証は行い、それ以外の拡大損害や第三者損害に対する責任も負うが、全てを合わせて、製品・サービスの対価の金額(またはその○○%)、または他の金額にその責任を限定する。

(e) 上記の金額に責任を限定するのに加えて、金額とは無関係に特定の性質の損害に対して責任を負わない(典型的なのが、間接損害、特別損害、付随的損害、派生的損害等)

(f) 製品・サービスそのものの保証(基本的には修理、交換、返金)に加えて、製品・サービスが引き起こす特許侵害や知的財産権侵害に対する責任についても、その排除や限定を規定することも多い。

(g) その他、上記 (a) ~ (f) の様々な組合せ

この種の条項はとても critical な条項ですので、翻訳には当然十分な注意が必要です。いくつかポイントを上げてみます。なお、英文のサンプルを部分的に挙げてますが、もっと長い文章を見たいときは、市販の解説書を参照してみて下さい。一番のお薦めはGoogle で適当なキーワードを打ち込んで検索することですが。

何の保証もしない契約があり得るのか、という点ですが、これは別に珍しいことではありません。例えば業者がまだ開発途中の製品で自信を持って納入できないものを、顧客が様々な理由で、「それでもいいから売ってくれ」ということがあります。この場合は、業者は当然保証をしたがりません。また、無料で差し上げる、という場合は、差し上げる側としては保証をしたくないでしょう。別の例として、コンサルタントがサービスを提供する場合を考えてみます。通常、コンサルタントのサービスの対価というのは、時間あたりいくらという少額のものです。例えばその対象が原子力発電所の防災システムについてアドバイス、という高リスクのものであれば、リスクに見合うだけの報酬は当然もらえません。またそのリスクをカバーする保険はとても高価で、コンサルタントが自分で付保するのは非現実的です。このような場合、一切サービスの保証はしないとするのが普通です。それどころか、顧客側がコンサルタントをあらゆる損害から防御する、ということもあり得るでしょう。

英語ですと、保証を排除する場合は、 “The Supplier gives no warranty …” とか “The Supplier disclaims any warranty …” という書き方もあれば、 “The Product shall be provided on an ‘as-is’ basis …” という書き方もあり、その組合せもあります。

責任を限定する場合は、 “In no event shall the Supplier be liable for …” 等の表現が使われます。

金額で損害賠償の上限を設定する場合は、収めた製品・サービスの金額に限定する場合もあれば、もしその金額が少額の場合は、損害が発生した時から遡って過去1年間に納入された製品の代金総額、とするケースもよく見ます。

この金額の設定交渉は私も何度も経験しましたが、基本的にはその時の状況と、交渉当事者の力関係に依存します。理屈としてこれが正しい、というものはありません。

では次に、翻訳にあたって注意が必要なことを述べます。

このコーナーの出だしで、「契約自由の原則」について触れました。原則というからには例外があるのですが、責任限定の場合はこの例外に注意する必要があります。製品やサービスの納入業者が自分の顧客に対する損害賠償責任を、当の顧客との契約で限定することは基本的に自由です。しかし、納入業者の故意や重過失(「過失」ではなことに注意して下さい)についてまで責任限定をする条項は、多くの国(州)で公序良俗違反として履行が強制できない可能性があります。

この重要な例外は、契約交渉にも影響が及ぶことがあります。責任限定の交渉は最後までもつれることが普通で、最終的にはいろいろな「妥協」が図られます。そのうちの一つの妥協策として責任限定に難色を示す顧客側がよく持ち出すのは、

何らかの責任限定が必要なのは分かった。しかし、おたくの会社の故意や重過失まで免責にするというのは認められない。そもそもこの契約の準拠法上も、そのような責任限定条項は公序良俗違反で履行強制ができない(unenforceable)だろう。だから、「但し、故意または重過失の場合は除く」という修正を加えたい(これはつまり納入業者は自分の故意または重過失については無制限の責任を負うということです)。それでOKなら、当社もこの条件でのむ。

という妥協案です。そしてこれでまとまることがよくあります。

「重過失」とは、注意義務違反の程度が甚だしい過失のことをいい、通常の過失と区別されます。ガソリンスタンドでタバコを吸いながら給油するような非常識的な行為です。顧客としては、通常の過失はともかく、重過失までは免責できないと主張する訳です。理屈は分かりますよね。

この場合の条項は次の様なものになります。勿論、他にもいろんなパターンがあります。あくまでも一例です。

“The limitations set forth in Section 13(b) above shall not apply to liabilities which may arise as the result of willful misconduct or gross negligence of the Supplier.”

「前第13(b)号の定めた限定は、乙の故意または重過失を原因とする責任には適用されないものとする。」

このコーナーの前半で不法行為のことについても触れました。その時に「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」という民法第709条を引用しました。この条文では「故意又は過失」がセットになってます。一方、上の妥協条項では “willful misconduct or gross negligence” 、つまり「故意又は重過失」がセットになってます。

この違いはとても重要です。決してこのような免責条項に置かれた例外規定の “gross negligence” を “negligence” と取り違えないで下さい。これを取り違えると、納入業者が最後まで苦労して勝ち取った「(重過失には至らない)普通の過失については、一定額以上の損害について免責される」という意味が吹っ飛んでしまい、致命的な誤訳になります(まさに重過失です)。

逆も同じです。「故意又は重過失」という日本語を英語に訳すときは、必ず “willful misconduct or gross negligence” とし、ちゃんと gross を付けたか何度も何度も読み返して下さい。

8. 翻訳目的に応じた心構え

契約を翻訳する目的も様々です。ざっくりと三つあげました。翻訳時の心構えも若干異なります。

(a) 既に調印済みの過去の契約の翻訳: 例えばあなたのクライアントがA社を買収するとします。A社の企業価値判定のために行う due diligence の一環として、A社が過去締結した契約を精査するのが普通です。クライアントが外国関連企業ですと翻訳の必要性が生じます。これが典型的な例です。 契約は既に調印済みで、変更が加わることはありません。とにかくその内容を正確に訳すことに専念します。原文に曖昧なところがあれば、曖昧なままに訳す必要があります。原文に誤りがあれば、それもそのまま訳します。クライアントは、その契約がはらむリスクを知りたいのです。契約の曖昧さや誤りも立派なリスクです。 これは、いわば、翻訳者が契約書から一番遠い所にいるケースです。

(b) クライアントが、自社の契約書を外国企業に提出するために必要となる翻訳。またはクライアントが外国企業からその母国語の契約書を提示され必要となる翻訳: このパターンが一番多いように思います。この場合は、契約書に曖昧さや誤りがあれば、クライアントはまだ訂正できます。または相手側に訂正を申入れることができます。翻訳者も原文に曖昧さや誤りがあれば、契約調印前にクライアントに指摘する時間的な余裕があります。翻訳者は単に翻訳すればそれで十分、という考え方もあるでしょうが、私は極力指摘するようにしています。場合によっては代案を出すこともあります。クライアントが日本企業の場合は、契約書の中で用いられている英米法の概念を説明することもあります。逆にクライアントが外国企業の場合は、日本法の概念や実務慣行を説明することもあります。受託している仕事はあくまでも翻訳ですが、クライアントの法務部員の一員という気分で仕事をすることにしてます。翻訳者が契約書にかなり近いところにいるケースですね。

(c) 契約交渉の最中に必要となる翻訳: これは (b) のバリエーションです。例えばクライアントの日本語の契約書を英訳します。次に相手方当事者がこれに対し英語でコメントすれば、これを逆に日本語に訳します。これに対してクライアントが日本語でコメントすれば、これを英訳します。契約交渉がまとまるまで、これを繰り返します。翻訳者が訳したものを元に、当事者同士が交渉を進めますので、一番ホットな翻訳作業です。誤訳は交渉破綻の原因にもなりかねませんので、神経を使います。コメントの比較表の作成等、いろいろな周辺作業が発生することもありますので、まさにクライアントの交渉団の一員というくらいの覚悟が必要です。大体、こういう場合は、交渉も最後の詰めの段階で、時間的な余裕もないので、交渉のスピードへの慣れも必要です。翻訳者が契約書のまっただ中にいるケースです。契約法務関連の実務経験があまりない翻訳者の方の場合、(c)のケースはかなりのチャレンジになると思います。

9. 以下余談です。

ある米国企業の日本法人のサイト利用規約を見ていたら、「責め苦」という言葉が目に飛び込んできました。穏やかでないな、と思い前後の文脈を見てすぐピンときました。そこでこの会社の米国本社の Term of Use を見ると、次のような文章でした。少し編集してます。

[Y]ou agree that you will not upload, post, email, transmit or otherwise make available any content that is unlawful, harmful, threatening, abusive, harassing, tortuous, defamatory, vulgar, obscene, libelous, invasive of another’s privacy, hateful, or racially, ethnically or otherwise objectionable;

これはサイト利用者の禁止行為を列挙した条項で、いわば、ありふれたものです。

さて、この「責め苦」はどうやら、赤字にした “tortuous” に対応しているようです。tortuousの意味は、研究社の新英和大辞典によれば、「ねじまがった」、「曲がりくねった」、「回り遠い」というものです。「不正の」、とか「よこしまな」という意味もあります。一方、小学館のランダムハウスには、次のような解説が載ってます。

torturous は、「苦痛[苦悩]を与える、苦しい」の意で用いられ、tortuous とははっきり区別される。しかし、時に、tortuous との混同から「曲がりくねった」「回りくどい」の意で用いられる場合もある: a tortuous road 曲がりくねった道 / torturous description 回りくどい描写

どうやらこの規約の英日翻訳者は、「曲がりくねった」では意味が通じないと考え、 torturous のタイプミスと判断して「責め苦」を当てたのでしょう。正に意味を曲げてしまった訳です。しかし、この翻訳者にとって気の毒だったのは、これには実はもう一つの誤りが絡んでいることです。実は原文の tortuous は tortious のタイプミスです。tortious は、tort (不法行為)に関連する、という意味です。ですから本来の意味は「不法行為に該当するコンテンツ」ということです。

英米法の法務の世界では、tortious は極めて日常的な単語です。しかし、tortious はアメリカ人が普通に使う英語の辞書にあまり載ってません。それどころか、マイクロソフト社の WORD のスペルチェックで必ずチェックが入ります。つまり正しくない綴りとして認識されている訳です。こういう事情もあって、翻訳者は原文にミススペルがあるとは夢にも思わず、思い悩んだ上で、上記のような「工夫」をしたのではと推測されます。これこそ「責め苦」ではないでしょうか。

この会社の他国の子会社のサイトを見るとなかなか興味深いものがあります。引用してみます。いずれも禁止事項の箇条書きの中の一事項ですが、単独の文章となるように私が冒頭に主語を入れて編集しました。英語原文の tortuous に該当する単語は赤字にしました。

ドイツ語:
Sie dürfen nicht Inhalte hochladen, per E-Mail versenden, übertragen oder in anderer Weise verfügbar machen, die ungesetzlich, schädlich, drohend, beleidigend, belästigend, unerlaubt, verleumderisch, vulgär, obszön, freizügig, die Privatsphäre anderer Personen verletzend oder hetzend sind oder bestimmte Rassen oder Volksgruppen diskriminieren.
スペイン語:
Usted no podrá subir, publicar, enviar por correo electrónico, transmitir o hacer disponible en forma alguna contenidos que sean ilegales, dañinos, intimidatorios, abusivos, hostigadores, siniestros, difamatorios, vulgares, obscenos, injuriosos, que invadan la intimidad de otros o expresen odios, o para los que se pudiera plantear alguna objeción por razones raciales o étnicas.
フランス語:
Vous ne devez pas envoyer, poster, envoyer par courriel, transmettre ou rendre disponible de toute autre manière un contenu qui serait illégal, nuisible, menaçant, abusif, vexatoire, tortueux, diffamatoire, vulgaire, obscène, calomnieux, constituant une violation de la vie privée d’un tiers, haineux ou répréhensible sur le plan racial, ethnique ou autre .
中国語(台湾):
您同意您不會將任何非法性、傷害性、威脅性、虐待性、騷擾性、不誠實的、誹謗的、粗野、穢褻性、中傷性、侵犯他人隱私性、仇恨性、或種族、族裔性、或非客觀的內容上載、公告、以電子郵件傳送、傳輸、或提供給他人

どの国のサイトも tortuous の訳に苦労しているように思えます。しかしドイツ語のサイトだけは unerlaubtとし、英語原文のミスを見抜いているようです。unerlaubt は「許されていない」というのが一般的な意味ですが、 unerlaubte Handlung でずばり不法行為という意味を持ちます。

参考までにApple Inc. の同種の条文の各国語版も転記しました。こちらは英語原文は正しく tortious となってます。日本語サイトの「不法」は、私だったら、「不法行為に該当するコンテンツ」という趣旨がもっと出るように訳しますが、「責め苦」でないことは明かです。

英語:
You agree that you will NOT use the Service to upload, download, post, email, transmit, store or otherwise make available any Content that is unlawful, harassing, threatening, harmful, tortious, defamatory, libelous, abusive, violent, obscene, vulgar, invasive of another’s privacy, hateful, racially or ethnically offensive, or otherwise objectionable.
日本語:
お客様は、本サービスを下記の目的で利用してはならないものとします:違法、ハラスメント、脅迫的、有害、不法、中傷的、暴力的、わいせつ、他者のプライバシーを侵害、人種差別的、他人に不快感を与える等の内容を含むコンテンツを、アップロード、ダウンロード、掲載、電子メール送信、発信、保存または取得可能な状態にすること。
ドイツ語:
Sie erklären sich damit einverstanden, die Services NICHT zu nutzen, um Inhalte, die rechtswidrig, belästigend, bedrohend, gefährlich, unerlaubt, verleumderisch, beleidigend, beschimpfend, gewaltverherrlichend, obszön, vulgär, die Privatsphäre Dritter angreifend, gehässig, rassistisch, ethnisch oder anderweitig verletzend sind, hochzuladen, herunterzuladen, zu veröffentlichen, per E-Mail zu versenden, zu übertragen, zu speichern oder anderweitig zur Verfügung zu stellen.
フランス語:
Vous vous engagez à NE PAS utiliser le Service pour télécharger, publier, envoyer par courrier électronique, transmettre, conserver ni rendre disponible aucun Contenu illégal, harcelant, menaçant, nuisible, délictueux, diffamatoire, injurieux, violent, obscène, vulgaire, indiscret quant à la vie privée de tiers, haineux, injurieux racialement ou ethniquement ou choquant d’une quelconque autre manière.
スペイン語:
Usted acepta NO utilizar el Servicio para cargar, descargar, publicar, enviar por correo electrónico, transmitir, almacenar o poner a disposición de algún otro modo cualquier Contenido que pueda considerarse ilícito, acosador, amenazante, dañino, malicioso, difamatorio, calumnioso, abusivo, violento, obsceno, vulgar, que invada la privacidad de otros, grosero, ofensivo desde el punto de vista racial o étnico, o cuestionable por cualquier motivo.
中国語(台湾):
閣下同意不會將本服務用作以下用途上傳、下載、張貼、發送電郵、傳送、存儲或以其他方式提供任何非法的、騷擾性的、恐嚇性的、有害的、民事侵權的、破壞名譽的、誹謗名譽的、永久形式誹謗的、辱罵性的、暴力的、淫穢的、粗俗的、侵犯他人隱私的、仇恨性的、在種族、人種方面或其他方面會引起反感的內容

個人的には中国語(台湾)の「民事侵権的」というのがいかにも tortious にぴったりで、気に入りました。

以上、英文契約の翻訳にあたって参考になるかもしれないと思ったことを簡単にまとめました。何かのお役に立てれば幸いです。またテーマを思いついたら書くかもしれません。時々覗いてみて下さい。

最後に、市販の英文契約書の指南書について一言。どれもよく出来ており、甲乙付けがたいところがあります。企業の国際法務に長年携わってきた経験からあえて一つ推薦するとすれば、商事法務研究会が発行している中村秀雄小樽商科大学教授の「英文契約書作成のキーポイント」ですね。法務知識に自信のない英日翻訳者の方でも、この本をじっくり読んで身につければ、一般的な会社の法務担当者よりは英文契約に強くなること請け合いです。勿論、法務担当者の方であれば、大幅なパワーアップが期待できます。この本をマスターすれば、他の指南書もより効果的に理解できると思います。

私は中途半端な法務部員の時代に、まだ丸紅にいらっしゃった中村氏にちょっとだけ話しを伺ったことがあります。その時、包括的な英文契約の解説書はほとんどありませんでした。しかしこの本は既に世に出ていました。以来、絶版とならず、ずっと売れ続けてます。それだけの重みがある本です。

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