契約書の翻訳がユニークなこと その2
2013年7月20日
文書とは、単一の主体がその思想や信条を述べるものです。文責というものがあり、曖昧なことがあれば文責者に聞けばいい、はずです。
この場合、文書の翻訳者が原文の曖昧さを解決しようと努めることは肯けます。
一方、契約書ですが、これは随分と特殊な文書です。
契約書の当事者は複数です。一人ということはありません。(一人の当事者が自分に都合がいいように作成した自社約款などは事情が異なりますが)
交渉で揉まれた契約書は、当事者の異なる意図が表面上はおとなしく体裁を整えてますが内部にはテンションが潜んでいます。
皆さん、強化ガラス食器というものをご存知ですか?軽くて丈夫ということで一時期、学校給食の場でも人気がありました。強化ガラス食器は薄くて軽いのが持ち味です。その強靱さは食器の内部に強いテンションをかけることで保たれているそうです。
普通にしていれば、この食器が勝手に震えだしたり、動いたりすることはありません。しかしこれを床に落とすと、落下位置を超えた高さまで破片が飛ぶことがあるそうです。つまり、静かな食器のように見えて、実は緊張が内在している訳です。
契約書も似たところがあります。私が企業の法務部で契約交渉をした時に、「サインした契約書は机の引出にしまい、一度も見返すことなく取引を終えるのが理想だ」と相手の担当者が言ったことがあります。両当事者の心が一つになっていれば確かに契約書を読み返す必要はありません。ずっと引出の中でひっそりしていることでしょう。しかし、なかなかこうは行きません。
一旦トラブルが発生すれば、いずれも契約書を引っ張り出し、自分に有利な解釈ができないかと必死になります。その時に曖昧な条項が標的となります。
曖昧な条項はその生い立ちも様々です。少し整理してみましょう。
1. 単純なミス。これはたとえば、if を of とタイプしたり、i.e. (すなわち)と e.g. (例えば)を取り違えたりすることです。これは文脈上誤りが明らかな場合が多いので、トラブルとなることはあまりないかもしれません。
2. 粗雑な文章。今回例に挙げた “and/or” などはこの例ではないでしょうか。既に書いた通りこの表現は曖昧ですので、例えば “may seek damages and/or specific performance” などとせず、ちゃんと “may seek damages or specific performance, or both” などと明確にすべきでしょう。しかし、契約書が膨大で、お偉いさんが署名する日が迫っている時など、ある程度のやっつけ仕事はどうしても生じてしまいます。
3. 一方の当事者が勘違いして不利な条件に合意してしまった。相手方はそのことに気づいたが、自分に有利なので黙りを決め込む。こういうケースもありますね。
「三名以上」ということで合意したのに、相手が書いた英文が “more than three persons” 、つまり「四名以上」となっていたり、 “gross negligence or willful misconduct” という趣旨で合意したのに、相手がうっかり “negligence or willful misconduct” とドラフトしてきたケースなどがこれに該当します(後者はかなり致命的なミスですが)。
これなどは、表現上の曖昧さはなくても、本当に合意した文章になっていない訳ですから、実質的には「曖昧」と言えるでしょう。
4. 両者の主張に隔たりがあり折り合いがつかないが、時間が迫ってきたので、やむを得ず玉虫色の表現で合意した場合。例えばこんなケース:
納入業者(Contractor)の提案文: “If the Product fails to conform with the specifications set forth in the Contractor’s Specifications No. xxxxx dated July 19, 2013, the Contractor shall repair the Product or …”
顧客(Customer)の提案文: “If the Product fails, in the sole judgment of the Customer, to function as intended by the Customer under this Agreement, the Contractor shall repair the Product or …”
妥協案: “If any defect is found in the Product, the Contractor shall repair the Product or …”
この妥協案は、 “is found” としてますが、誰がその判断をするのかが曖昧です。本来、契約書としては望ましくありません。しかし、どちらの当事者も自分の判断とすることを言い張ってまとまらず、この曖昧な表現で「妥協」した訳です。まぁ、問題の先送りですが。
契約書には、このような曖昧さや疑義がもたらすテンションがつきものです。
ではこのような文書の翻訳はどうすればよいのでしょうか?
私は、原文の曖昧さはそのまま温存して訳すべきと考えています。そもそも契約書翻訳の目的は、原文の契約書の正しい理解にあります。原文がもつ曖昧さをそのまま反映しなければ、正確なリスク分析が行えないはずです。翻訳者が勝手に原文の曖昧な表現を「明確」にすることは好ましくありません。
といった理由で、 “and/or” 等も私はそのまま「および/または」と訳すことにしています。
蛇足になりますが、「および/または」という表現を忌避される翻訳者の方は、これが日本語にない表現方法であることに大きな抵抗を感じてらっしゃるのではと思います。これには私も全く同感です。しかし、「日本語にない表現は使わない」という方針は、一見正しいように思えますが、契約書の翻訳に関する限りあまり意味がないのでは、というのが私の率直な感想です。(他の分野の翻訳については私は経験も勘もありませんので、これはあくまでも法務翻訳、特に契約書翻訳に限定した意見です)
これについては、紙面も尽きましたので、次回のブログで。